遥かなるセントラルパーク
今日は、あいにく走る時間が無かったため、都議会議員選挙の投票に行くついでに5km少々ゆっくりウォーキングをした。結果、今週は目標を大幅未達。残念だが致し方無い。
話は変わるが、Mmat1969さんが5月12日のブログで紹介されていた「遥かなるセントラルパーク」(トム・マクナブ著、原題:Flanagan's Run)を読んだ。大恐慌後の未曾有の世界大不況下、ロサンゼルスからニューヨークまでの3,000マイル(約5,000キロ)を賞金30万ドルをかけて争う、超ウルトラマラソンレースの物語である。
著者のトム・マクナブ自身、三段跳びの選手であり、かつ、イギリスの陸上のナショナル・チームのコーチであり、マラソンに関して恐らく全くの素人ではないが、自身がロサンゼルスからニューヨークまで走ったのではないかと思われるくらい、描写にリアリティがある。マラソン経験者は、自身が体験しているかのような錯覚を覚えるくらいである。
また、1928年に実際に行われたアメリカ横断レースを元にしているとはいえ、「陸上競技者」が書いたとは思えないほどの最上のエンタテイメントに仕上がっている。文庫本で上下2巻にわたる長編であるが、よほどの本嫌いでない限り、最後まで読み切ること間違いなしである。
さらに驚くべきことは、1982年、約30年前に書かれた本であるにもかかわらず、そこに書かれていることが全く古びていないことだ。給水、高地の影響、日焼け対策、寒冷地対策、消費カロリーと体脂肪率、急坂登り、ドーピング、心臓マッサージ、精神論など、内容は多岐にわたるが、最近書かれたのではないかと思われるくらい「まっとうな」理論であり、それが物語り全体にリアリティと厚みをもたせている。以下、ネタバレしない程度に、転載する。
『その通り。いつだってランナーをつぶすのはペースなんだ。決して距離じゃない。』
『ひとつ学んだことがある。自分の体の声を聴けってことだ。私のアキレスはニ、三日の休養を求めているだけなんだ。』
「それは超人的ランナーの抱える奇妙なパラドックスだった。走る能力が上がれば上がるほど、けがをしやすくなり、また、筋や腱の顕微鏡的な繊維に、まさしく銃弾並みの威力で足を止めてしまう断裂や炎症を引き起こしやすくなるのだ。」
『着地は踵からだ、お嬢さん。ストライドは低めに保て。走るんじゃない、足をひきずるくらいでいいのだ』
『それから、低めのストライドを忘れるな ― 給水ポイントごとに水を飲むこともだ』
「いかにむらのないペースで走り、いかに経験を積んでいようと、ランナーは必ず二十マイル付近で《壁》にぶつかる。ドクが友人の医者に聞いたところ、その時点では血糖のバランスがくずれ始め、走り続けるためには他のメカニズムに頼らざるを得なくなるのだという。」
「果物やチョコレートなどの軽くて消化の早いスナック、水、ミルク、塩気のあるレモン水が供されるようになっていた」
「ケイトは呼吸が苦しかったわけではないが、足が次第に重くなって、尻が下がり、筋肉が柔らかい道路のでこぼこをますます吸収しにくくなっているのを感じた。」
『五千フィート以上だな。その高度だと、マイル十分のペースでもきつい。特に急坂ではな。脚は重く、胸は苦しいし、何もかもがしんどくなる。』
「自分の肉体的能力にことのほか敏感なランナーにとって、次第に若さが薄れて中年の意気に踏み込んでいくのを認めることは決して容易ではない。多くの点でランナーはふつうの人々よりもずっと、こうした衰退現象を強く意識させられる立場に置かれている。なぜなら、ストップウォッチは公平、かつ非情なものだからだ。」
『自分の肉体を未知の世界に駆り立てていくことは麻薬と同じなんだ。いったんその魔力にとりつかれると、抜け出すのは難しい。自分の記録が伸びている間はランニングほどおもしろいものはないと思った。だが、人間はいやおうなしに年をとる。そうなると、おれは半ぱな距離に挑戦することで自分をごまかさなければならなくなった。』
『自分に打ち勝てば、たとえ結果がどうであれ、堂々と胸を張ってかまわないのだ。』
(以上、転載終わり)
※1マイル=1.61キロ(二十マイル=32.2キロ、マイル十分=キロ6分15秒)
是非、お勧めする。自身がランニングしているとより楽しめるだろう。
仮想コースに、いつかこの小説のレースのコース「トランス・アメリカ」を加えたい。