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京都散策:平家物語の史跡を訪ねて1日目

おとなびを使っての京都旅行

京都に行くならテーマを決めて行くとよい。ということで、平家物語の史跡をめぐりながら気ままにひたすら歩いた。でも、そこは平安から明治になるまで1000年以上の歴史がある京都。図らずも、武蔵や秀吉や幕末の史跡巡りにもなってしまった。あいにくの雨となったが、涼しく過ごしやすかった。

三十三間堂→法住寺→養源院→豊国神社→方広寺→耳塚→六波羅密寺→義仲首塚→高台寺→祇園女御塚→長楽寺→八坂神社

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三十三間堂 京都駅からまっすぐ、ここを目指した。院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の「法住寺殿」と呼ぶ院御所内に、平清盛の資財協力によって創建 等身大の1000体の観音立像は圧巻 境内南端には、南大門と豊臣秀吉が寄進した築地塀がある。通称「太閤塀」と呼ばれる塀がある。 三十三間堂の南側にあたる長い縁側は、吉川英治の『宮本武蔵』で、武蔵と吉岡伝七郎が決闘する場所として有名。

三十三間堂
京都駅からまっすぐ、ここを目指した。院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の「法住寺殿」と呼ぶ院御所内に、平清盛の資財協力によって創建
等身大の1000体の観音立像は圧巻
境内南端には、南大門と豊臣秀吉が寄進した築地塀がある。通称「太閤塀」と呼ばれる塀がある。
三十三間堂の南側にあたる長い縁側は、吉川英治の『宮本武蔵』で、武蔵と吉岡伝七郎が決闘する場所として有名。

法住寺 後白河天皇所縁。二条天皇に譲位後、院御所法住寺殿を建立し移り住んだ。平氏の六波羅の南に位置。院御所であり、院政の中心地。

法住寺
後白河天皇所縁。二条天皇に譲位後、院御所法住寺殿を建立し移り住んだ。平氏の六波羅の南に位置。院御所であり、院政の中心地。

後白河天皇陵入口 残念ながら土日祝日は、閉門されて、拝観することができなかった。

後白河天皇陵入口
残念ながら土日祝日は、閉門されて、拝観することができなかった。

豊国神社 神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。

豊国神社
神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。

方広寺の鐘 大坂の陣の直接の原因となった方広寺鐘銘事件。鐘に書かれている文中に「国家安康」「君臣豊楽」が強調されている。

方広寺の鐘
大坂の陣の直接の原因となった方広寺鐘銘事件。鐘に書かれている文中に「国家安康」「君臣豊楽」が強調されている。

六波羅蜜寺 平氏の六波羅。

六波羅蜜寺
平氏の六波羅。

六波羅蜜寺 清盛、空也像 写真撮影不可なので、入り口の写真を写す。

六波羅蜜寺 清盛、空也像
写真撮影不可なので、入り口の写真を写す。

高台寺 1606年(慶長11)豊臣秀吉の正室北政所が秀吉の菩提を弔うため創建。

高台寺
1606年(慶長11)豊臣秀吉の正室北政所が秀吉の菩提を弔うため創建。

八坂神社忠盛燈篭 平清盛の父 

八坂神社忠盛燈篭
平清盛の父

八坂神社内の祇園女御供養塔 平清盛の母 

八坂神社内の祇園女御供養塔
平清盛の母

崇徳上皇 保元の乱に敗れた崇徳上皇は、讃岐に流され、46歳で崩御されたが、上皇の寵愛を受けた阿波内侍が上皇の遺髪を請い受け、この地に一塚を築き、亡き上皇の霊をお慰めしたと伝えられている。

崇徳上皇
保元の乱に敗れた崇徳上皇は、讃岐に流され、46歳で崩御されたが、上皇の寵愛を受けた阿波内侍が上皇の遺髪を請い受け、この地に一塚を築き、亡き上皇の霊をお慰めしたと伝えられている。

長楽寺 安徳天皇の母、建礼門院が平家滅亡後、この寺で落飾した古刹。

長楽寺
安徳天皇の母、建礼門院が平家滅亡後、この寺で落飾した古刹。

八坂神社の東、円山公園の龍馬と慎太郎像、昭和11年建立とか。

八坂神社の東、円山公園の龍馬と慎太郎像、昭和11年建立とか。

明智光秀首塚に明智の桔梗の花

明智光秀首塚に明智の桔梗の花

梅宮社:明智光秀首塚

梅宮社:明智光秀首塚