どうにもこうにもワシントン

第6話 アメリカ民族

アメリカ人を連れて日本食を食べに行った。刺し身も大丈夫というので最初に寿司をとって皆で分けることにした。
「無理して、箸を使わなくてもいいよ。日本人だって覚えるのにものすごく時間がかかるんだし、手で食べる方が本式なんだから。」
等という言葉には耳も貸さずに、箸を右手につぶらな瞳 1 で見つめられると、もう教えないわけにはいかない。
「この棒のこの辺を手のこの辺りに置いて…」
という具合に必死になって教えるのだが、やはり一朝一夕にはうまくはいかない。二人羽織を見ているよりもひどい。しかし、
「こんな感じ?」
と言って、目の前で動かされると、
「うまいね。前にも習ったことがあるの?」
と、お世辞が口をついて出てきてしまう。なんで『手で食べた方がいいよ。』と言わなかったんだと後悔する間もなく、まだ制御下に無い箸がスルスルッと寿司に伸びて、ねじるようにつかむ 2 と、醤油の入った小皿にゆっくり向かう。ゲームセンターのクレーンでも見ているようだ。寿司が途中で小皿に落ち、醤油が飛び跳ねて服でも汚そうものなら、それこそ一大事だ。もう祈る思いである。小皿に無事到着するとほっとする。しかし、次の心配が浮上する。彼らはそこで一休みしてしまうのだ。醤油が毛細管現象によって、シャリにどんどん染み渡るのが見える。幾つかのご飯粒が、ポロポロと崩れ始める。『早くしなくちゃ、崩れちゃうし、辛くなっちゃうよ。』とハラハラしていると、半分ぐらい黒くなった寿司を箸でまたねじるようにつまみあげ、ゆっくり口に運ぶ。見るからに辛そうだ。『吐き出したりするなよな。やっぱり、手で食べるように薦めるべきだった。』とこちらが心配しながら見守る中、それが実にうまそうに食うのだ。それだけじゃない。やはり、崩れてしまったご飯粒がもったいないと思うのだろう。おもむろに小皿を取り上げ、醤油ごとそれを口に流し込むのである。もうあっけにとられて見ていると、にこにこ笑っている。
「おいしい?」
ときくと、
「うん。」
と本当においしそうに答える。そしてそれが繰り返されるのだ。醤油差しの醤油が目に見えて減って行くにつれて、こちらの食欲がどんどん無くなって行く。こいつらの舌はどうかしている!
日本人の友人にこの話をすると、
「俺は、アメリカ人が行列を作る店には行かないことにしてるんだ。」
と、もう既に悟りきっている。ある日、彼がアメリカ人の友人lこ醤油を紹介したところ、『ソースと同じ味だ。』と言う。じゃあ、比べてみようということで、二つの小皿に醤油とウスターソースをそれぞれ入れて、味見をさせると、やはりどちらが醤油か区別できなかったそうだ。
「日本の旅行雑誌に、『アメリカの雑誌のレストランのランキングを信じるな』って書いてあるだろう。あれは本当だよ。」
という彼の言葉がもっともらしく聞こえてしまう。アメリカ人の塩辛味に関する味覚はかなり鈍感のようだ。カルチャーショックの一過程に他の文化を非難するという過程があるそうだが、これらはまさにカルチャーショックであった。

もちろん、繊細な舌を持つアメリカ人もいるだろうが、味覚というのは、その民族・文化にかなり依存している。逆に、その人の味覚を調べれば、どの民族であるかをおよそ当てることができる。東南アジア、インド近辺の民族はやはり辛味(spicy hot)に対してかなり強い。同じ、暑い地域でも中近東の民族は辛味に対して意外に弱く、逆に甘味に対して非常に強い。ここで、強いというのは悪く言えば鈍感で、弱いというのは良く言えば繊細である。例えば、マレーシア人やアフガニスタン人の作るカレーは、他の民族にはものすごく辛く感じるし、アラビア人やトルコ人のデザートは砂糖の塊でも食べているかのように甘い。
嗅覚も同じで、学生寮の廊下にカレーの匂いが漂っていたりすると、僕なんかはよだれが出てくるのに、『あそこのインド人は匂いがきつくていやだ』と言って、廊下に芳香材を噴霧したりする人もいる。また、魚を結構食べるトルコ人やアラビア人にさきいかを食べさせようと袋を開けた途端に、蜘妹の子を散らすように部屋から出ていき、『頼むから早くそれをしまってくれ』と大騒ぎになったことがある。

それでは、アメリカ人種なるものが存在するとして、彼らは味覚上どのように分類できるだろうか? 私の知る限りではどの味覚に対しても鈍感の様だ。良く言えば、どの味覚に対しても許容度が大きい。アメリカ人以外は、基本的にその民族国有の味に固執する。他の民族の科理にもチャレンジするのだが、なかなかその味を受け入れるには至らない。その点、どの民族料理店に行ってもかなりの数のアメリカ人が客として来ている。アメリカ人にとっては、自分の周りにいろいろな民族・文化が存在することはごく当り前のことであり、小さい頃からいろいろな文化・味覚を受け入れることが身に付いているようだ。

そう言えば、良く道を開かれる。周りに白人の人がいるのにも拘らず、道を尋ねられたことは何度もある。日本にいれば、外国人に道を尋ねる馬鹿はいない。しかし、アメリカでは他の民族に道を尋ねることは決して馬鹿なことではない。白人が現地の人である保証はどこにも無いのである。

こういった食習慣の例からも分かるように、民族・文化というのはなかなか容易に交わるものではない。『世界は一つ』等という思想は非常に非現実的で馬鹿げたものだ。一つの共通な文化や国家を作り上げることは不可能である。しかし、ここに、異なる民族集団が共生し、一つの国歌・国旗に忠誠を誓っている国 3 がある。『地球は一つ』である。異なる民族が地球というものに対して共に忠誠を誓うことは可能である。アメリカの国家制度が完全であるとは思われないが、これからの国際社会のあり方を考える上で、教育思想など大いに参考にすべきシステムだと思う。


  1. 全く関係無い話であるが、青い瞳というのは本当にきれいなものである。これは万国共通の認識のようだ。『俺、青い瞳の女の子には何でもしてあげる』なんて言うやからが結構いる。
  2. どうも寿司は少し固めに握ってあるようだ。
  3. アメリカ人の国歌・国旗、そしてそれらを通じた国家に対する思い入れというのはものすごいものである。どのスポーツを観戦しに行っても、一番最初の国歌斉唱に間に合うか間に合わないかは大きな問題で、かなり盛り上がるものである。国歌は静かに聞くものと思っている日本人にしてみれば、国歌をラップでも歌ってしまうアメリカ人のカルチャーには驚かされる。反面うらやましい。